青天のヘキレキ。目からウロコ。

大きな衝撃を表す日本語は数多くあるが、古芝保治と枚岡合金工具にとって、3Sとの出会いはどんな言葉でも言い表すことができないほどの強いインパクトがあった。

料理屋事件の一年ほど前。

「どないしたらええんや…」

その頃の保治の頭の中は、常にこの言葉でいっぱいだった。
バブル崩壊以降の景気の低迷。枚岡合金工具は、定評のある技術力のお陰で何とか持ちこたえていたものの、世間を取り巻く大きな不景気の渦は、ボディブローのようにじわりじわりと枚岡を呑み込もうとしていた。

「このままではあかん。遅かれ早かれ、枚岡がつぶれるのも時間の問題や」

どこかの会社が不渡りを出した、どこかの社長が失踪した…そんなニュースを聞くたびに、明日は我が身かと、体が震えた。

「副社長、何かええ方法はないか」
「ええモンは作ってる。うちの生き残る道は、ええモンを作り続けるしかないやないか」

副社長・古芝義己と何度も話し合ったが、いつも堂々巡り。義己も自分と同じ思いであることは重々承知だった。それでも、保治が相談できる相手は義己だけだ。迫り来る不安を社員たちに打ち明けるわけにはいかない。

義己と二人で右肩下がりのグラフを見つめながら「いい製品を作り続けるしかない」と、お題目のように唱える日々が続いた。
しかし、もちろんただ手をこまねいて崩壊の日を待っていたわけではない。
企業セミナーや研修会にも足しげく通い、起死回生の道を模索した。そこで聞いたこと、学んだことは、とりあえず実践してみた。でも、すでに坂道を転がり始めた会社にブレーキをかけるには至らなかった。

そんなある日。
保治は、大阪府中小企業振興協会の無料セミナ-で、京都の吉祥院という場所にある「田中テック」さんの工場見学に向かった。

「他社の経営から何かが学べるかも知れない」という淡い期待と
「小学生やあるまいし、今さら工場見学なんて……」という思いが交錯したが、結果的に、この工場見学に赴いたことが枚岡合金工具のターニングポイントになるのである。